バカと天才は紙一重 ②
先に、
「天才性をはかるための難問が、その解法において手続き化されてしまい、単なる問題の効率的処理能力を競うだけの性能競争になってしまった」
ということを述べました。
しかし、それはある意味において、進歩しているということでもありますね。
私は、それを全否定しているわけではありません。
今まで難しくて解けなかった問題が、すでに解決積みの問題として事務的に処理することができるまでに落としこまれている。
これは、文明の進歩している姿であるということができますね。
今まで解法が分からず未解決であった問題が、既知の方法として確定され、論理的に整理され、手続き化されてしまったのなら、それを書籍として編纂することも可能になり、それを教本として人に教えることさえできる。
その作業によって知識は多くの人々に共有化され、その成果を拡大再生産することができる。
これが教育の方法でもあるのですから、そのスキームに基づいた学力判定試験が行われることも当然であるということなのかも知れません。
ただ、試験問題が、あまりにも奇抜で常人に理解不能な難問奇問ばかりのオンパレードになったら、
それに取り組むほとんどの人間が零点ばかりで、答えが皆目見当がつかない問題ばかりになったら、
もう、ほとんどやる気がなくなってしまますよね。
その問題に応じて、真摯に対決しなければならない学生たちが学ぶであろう学問自体の傾向が、変わってしまうのではないかと思います。
奇抜な問題を解くために基本が軽視され、
「知識を理解することを目的として、その成果を拡大再生産する」
という本来の意義が崩れてしまうことが推定されますね。
そうなんです、試験は、それを受験することを求められる学生たちの学習内容に方向づけを与えるんです。
そういうことも考えておかなければならないでしょう。
話がそれてきたので、バカと天才の話に戻ります。
天才をはかるモノサシが無いということを述べてきました。
それは、既存のモノサシにおさまりきらないのが天才であるということでありました。
では、バカは天才とどう違うのでしょうか?
紙一重と言われますが、それはどういうことなんでしょうか?
バカと天才の一重の差とはなんでしょうか?
天才には、既知のモノサシではかれない才能があるのですが、バカには天才的な才能が無い。
それが、薄皮一枚の差でしかない。
そういうことでしょうか?
では、それが無いということを、どのようにして判定するというのでしょうか?
どちらも、既存の知識でははかれない。
既知の常識には当てはまらない。
それは、情報処理の性能を越えたところに判定基準があるらしい。
その違いは、常人には紙一枚の差にしか見えない。
しかし、本当は、天と地の差がある。
だから、バカと天才は紙一重、
そのように言われるのだと思います。
はかるためのモノサシが無い。
バカか?天才か?それがはかれないにもかかわらず、バカには才が無いということを断定して、その対象者をバカとみなす。
なぜ、そんなことができるのか?
バカだということを判定した人には理解不能の才能が、その人がバカだと認定する人には実は存在して、本当はバカではなくて天才だった。
そのようなことは、良くあることなのです。
その可能性をこそ、どこか心の片隅に、常に留めておかなければならないのだと思います。
ところで、おバカと言えばヘキサゴンでしょうか?
おバカタレントの代表であるスザンヌは、本来的に持っている素質はバカではないように私は思っています。
バカというよりは、無知なんだと思います。
ゆとり教育が原因なのかどうかまでは分かりませんが、ものごとを本当に知らない。
知らないものだから、答えられない。
知らないから答えられないのに、無理にでも解答をあみ出してくる。
正解であろうが間違っていようが、まったくお構いなしに答えを言う。
その答えが面白いから、受けたんですよね。
絶妙に笑わせてくれるところが、本当のバカではないということでしょう。
今の教育には、基礎訓練を軽視する傾向があります。
基礎学力に手を抜いて、基礎を固めずに創造力教育をしようとする。
しかし、これは本当の創造力とは言わないんです。
スザンヌのような絶妙な珍答を創りだすお笑い芸人としての創造力は、創造力の一種ではありますが、それはやはりお笑いの世界でしか通用しないものなのではないかと思います。
それをもって天才といえるのかどうかはまでは知りませんが、何らかの才能があることは認めてもよかったと思います。
ただ、それは過去形です。
スザンヌは、おバカを完全に受け入れてしまって、それを自分のウリとして定着させたあたりから本物のバカになって行ったように思います。
本物のバカとなると共に、魅力も半減していったと思います。
賢い人には必死で努力しないとなれないものですが、バカになることは本当に簡単です。
努力をやめて、現状肯定になれば良いだけなのですから、簡単なもんです。
知識ではかれない芸能のような才能であっても、それを磨くことをやめたらなら、すぐに光は失われてゆきもんなんですね。
「バカでいいんだ、素のままでいいんだ」と現状肯定してしまい知ったかぶりをギャグにする
そうなれば、すぐに退化が始まります。
その姿は鼻につき始め、飽きられてしまい、人を惹き付けるものが失われてしまうんでしょう。
しかし、何かに努力をすれば、必ずその部分は成長してゆくことができるんです。
磨く部分は、それを自分で決定できる。
試験ではかれて点数化できるようなものでなくても全然構わないということですね
では、一番のバカ者は何であるか?と言えば、
「自分の常識に照らし合わせて、相手のバカさかげんを見下して、あざける人、笑う人」
なんだろうと思います。
真実がわかっていないくせに、自分は正しいと慢心する。
自分を高みにおいて、直ぐに相手を見下す。
それも、自分の狭い考えに基づいて相手を完全否定する。
そして、笑う。
侮蔑する。
揶揄する。
バカにする。
バカボンだと言う。
そのように言うあなた自身が、実は一番の大バカ者である
ということを、是非とも自覚していただきたいものだと思います。
自分が信じられないような事を言っているから信じない。
本当に単純ですね。
自分が理解できないことだから、それを否定する。
未知の不安を、対象をバカにすることでひ弱な自我を保とうとしている。
あなたが理解できないことをもって完全否定するのは、もうやめるべきです。
理解できないことをもって否定に入るという卑怯な真似からは、いち早く卒業することです。
バカと天才は紙一重なんです。
それは、自分の謙虚さを確かめるために問われるものなのです。
本当の大バカ者は、「自らが賢いものとして他を見下すもの」ということです。
“知的謙虚さ”ということを、どうか自らへの戒めとしていただきたいと思います。
「天才性をはかるための難問が、その解法において手続き化されてしまい、単なる問題の効率的処理能力を競うだけの性能競争になってしまった」
ということを述べました。
しかし、それはある意味において、進歩しているということでもありますね。
私は、それを全否定しているわけではありません。
今まで難しくて解けなかった問題が、すでに解決積みの問題として事務的に処理することができるまでに落としこまれている。
これは、文明の進歩している姿であるということができますね。
今まで解法が分からず未解決であった問題が、既知の方法として確定され、論理的に整理され、手続き化されてしまったのなら、それを書籍として編纂することも可能になり、それを教本として人に教えることさえできる。
その作業によって知識は多くの人々に共有化され、その成果を拡大再生産することができる。
これが教育の方法でもあるのですから、そのスキームに基づいた学力判定試験が行われることも当然であるということなのかも知れません。
ただ、試験問題が、あまりにも奇抜で常人に理解不能な難問奇問ばかりのオンパレードになったら、
それに取り組むほとんどの人間が零点ばかりで、答えが皆目見当がつかない問題ばかりになったら、
もう、ほとんどやる気がなくなってしまますよね。
その問題に応じて、真摯に対決しなければならない学生たちが学ぶであろう学問自体の傾向が、変わってしまうのではないかと思います。
奇抜な問題を解くために基本が軽視され、
「知識を理解することを目的として、その成果を拡大再生産する」
という本来の意義が崩れてしまうことが推定されますね。
そうなんです、試験は、それを受験することを求められる学生たちの学習内容に方向づけを与えるんです。
そういうことも考えておかなければならないでしょう。
話がそれてきたので、バカと天才の話に戻ります。
天才をはかるモノサシが無いということを述べてきました。
それは、既存のモノサシにおさまりきらないのが天才であるということでありました。
では、バカは天才とどう違うのでしょうか?
紙一重と言われますが、それはどういうことなんでしょうか?
バカと天才の一重の差とはなんでしょうか?
天才には、既知のモノサシではかれない才能があるのですが、バカには天才的な才能が無い。
それが、薄皮一枚の差でしかない。
そういうことでしょうか?
では、それが無いということを、どのようにして判定するというのでしょうか?
どちらも、既存の知識でははかれない。
既知の常識には当てはまらない。
それは、情報処理の性能を越えたところに判定基準があるらしい。
その違いは、常人には紙一枚の差にしか見えない。
しかし、本当は、天と地の差がある。
だから、バカと天才は紙一重、
そのように言われるのだと思います。
はかるためのモノサシが無い。
バカか?天才か?それがはかれないにもかかわらず、バカには才が無いということを断定して、その対象者をバカとみなす。
なぜ、そんなことができるのか?
バカだということを判定した人には理解不能の才能が、その人がバカだと認定する人には実は存在して、本当はバカではなくて天才だった。
そのようなことは、良くあることなのです。
その可能性をこそ、どこか心の片隅に、常に留めておかなければならないのだと思います。
ところで、おバカと言えばヘキサゴンでしょうか?
おバカタレントの代表であるスザンヌは、本来的に持っている素質はバカではないように私は思っています。
バカというよりは、無知なんだと思います。
ゆとり教育が原因なのかどうかまでは分かりませんが、ものごとを本当に知らない。
知らないものだから、答えられない。
知らないから答えられないのに、無理にでも解答をあみ出してくる。
正解であろうが間違っていようが、まったくお構いなしに答えを言う。
その答えが面白いから、受けたんですよね。
絶妙に笑わせてくれるところが、本当のバカではないということでしょう。
今の教育には、基礎訓練を軽視する傾向があります。
基礎学力に手を抜いて、基礎を固めずに創造力教育をしようとする。
しかし、これは本当の創造力とは言わないんです。
スザンヌのような絶妙な珍答を創りだすお笑い芸人としての創造力は、創造力の一種ではありますが、それはやはりお笑いの世界でしか通用しないものなのではないかと思います。
それをもって天才といえるのかどうかはまでは知りませんが、何らかの才能があることは認めてもよかったと思います。
ただ、それは過去形です。
スザンヌは、おバカを完全に受け入れてしまって、それを自分のウリとして定着させたあたりから本物のバカになって行ったように思います。
本物のバカとなると共に、魅力も半減していったと思います。
賢い人には必死で努力しないとなれないものですが、バカになることは本当に簡単です。
努力をやめて、現状肯定になれば良いだけなのですから、簡単なもんです。
知識ではかれない芸能のような才能であっても、それを磨くことをやめたらなら、すぐに光は失われてゆきもんなんですね。
「バカでいいんだ、素のままでいいんだ」と現状肯定してしまい知ったかぶりをギャグにする
そうなれば、すぐに退化が始まります。
その姿は鼻につき始め、飽きられてしまい、人を惹き付けるものが失われてしまうんでしょう。
しかし、何かに努力をすれば、必ずその部分は成長してゆくことができるんです。
磨く部分は、それを自分で決定できる。
試験ではかれて点数化できるようなものでなくても全然構わないということですね
では、一番のバカ者は何であるか?と言えば、
「自分の常識に照らし合わせて、相手のバカさかげんを見下して、あざける人、笑う人」
なんだろうと思います。
真実がわかっていないくせに、自分は正しいと慢心する。
自分を高みにおいて、直ぐに相手を見下す。
それも、自分の狭い考えに基づいて相手を完全否定する。
そして、笑う。
侮蔑する。
揶揄する。
バカにする。
バカボンだと言う。
そのように言うあなた自身が、実は一番の大バカ者である
ということを、是非とも自覚していただきたいものだと思います。
自分が信じられないような事を言っているから信じない。
本当に単純ですね。
自分が理解できないことだから、それを否定する。
未知の不安を、対象をバカにすることでひ弱な自我を保とうとしている。
あなたが理解できないことをもって完全否定するのは、もうやめるべきです。
理解できないことをもって否定に入るという卑怯な真似からは、いち早く卒業することです。
バカと天才は紙一重なんです。
それは、自分の謙虚さを確かめるために問われるものなのです。
本当の大バカ者は、「自らが賢いものとして他を見下すもの」ということです。
“知的謙虚さ”ということを、どうか自らへの戒めとしていただきたいと思います。
スポンサーサイト
- テーマ: とっておきの情報いろいろ
- ジャンル: ニュース