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未来科学の平行世界 第4章 大中華合衆国への道 その②

 民主主義の根本には、神に対する信仰心がある。

 創造主たる神への信仰あってこそ、人は尊さというものを知ることができるのだ。
 人は同じく創造主によって創られた同胞であることに気づくことで、ひとりひとりを大切にする愛の思想が生まれるのである。そしてそれこそが、本当の平等観の根本であることを知らなければならない。
  
 また、民族を形成するのも、その民族の成立と歴史を伝承する宗教と神話なのだ。

 それは民族としてのアイデンティティそのものであって、何が善であり何が悪であるかという価値観を内包しているがゆえに、それを信奉する人々が相集ってまとまりのある国家を形成する中心理念となることができるのだ。

 すなわち、信仰こそが民族国家形成のよすがともなり、その根拠となり、価値判断の正統性の証となる。
 宗教こそが文明圏をつくる第一原因ということなのである。

 さて、そういった信仰心に基づいて国が形成されてゆくわけであるが、その歴史の過程とともに、各民族には、その民族を主導する指導霊団が形成されてくる。
 そういった国や民族に基づいた霊集団が、各国の人々を指導する過程で生み出されてきて、国家の運命とその歴史を形づくっているのである。

 価値観が異なるゆえに、国と国の間には価値観の対立が生まれ、紛争が生じる時がある。
 唯物論にあっては、その相克を、”物質的なる力”によって否定し去り、物質的なる力によって抑え込み、物質の下にひれ伏させるのである。
 物質の側からみて、そのような思想的相克の存在を完全否定し、物理的力によって抹殺する。
 それこそが、唯物論的なる問題解決法なのだ!

 そのような”物質力による統治”に対しては、当然の如く反発する勢力が現れ、信仰に基づいて徹底的に抵抗する集団が現れ、命を捨てても物質にひれ伏すことを拒否し、思想や精神性を捨てることを断固拒絶するのである。
 唯物論勢力が強大に場合にあっては分離独立しようとする者たちが後を絶たなくなる・・・。
 力弱き場合には、亡命者として集団国外脱出をはかるのである。
 彼らは、目に見えない価値を守ることを第一に考え、創造主への帰依を強く訴える・・・。
 それに対して唯物論的指導者は、物質しか見えず、形而上価値はそれを否定し、ゆえに利欲基づいた判断が優先され、彼らこそが秩序の破壊者としてレッテルをはられることになるのである。

 物欲にまみれた政治的指導部の中には、不正と汚職が蔓延り権力をめぐっての見苦しい内部抗争が延々と続いてゆく。それは、力のみが正義であるということなのだから仕方がない。人々を統べる政府としての道徳的権威は、果てしなく地に堕ちてゆくのである。

 それはそうだろう、人間に倫理を与え、それに反する生き方を恥ずかしいものと自覚させ、反省に導くもの・・・。それが信仰なのだから、当然の帰結でしかないだろう。

 人間の中の動物的なる本能を慎み、統御し、高邁なる精神や理想、高徳なる価値観や魂を震わせる気高い魂へ向かわせる原動力となるもの・・・。それが信仰心であり、人間と動物を分ける鍵となるもの・・・。

 高徳なるものこそが神であり、仏であり、創造主である。仏とは法であり、人類の模範たる教えであり、人類師として究極の悟りを得たる者、すなわち仏陀が説かれた教えそのもの・・・。

 悟りたる者、そういった聖人としての信仰が成立し得る人物が教祖としてあらわれ、その人から流れ出すところの教えと、その霊性への信仰を中心に成立した教義こそが、世界宗教となってゆくのである。

 歴史的には、釈尊であり、イエス・キリストであり、マホメットであり、そして、天御親神ということである。

 神仏を根本的に否定し、宗教をアヘン扱いする。そして、人智によってこの世の世界を制圧し、それに反対する勢力を圧殺することで見かけの平和を描出する。それが唯物論の考え方なのだ。

 要するに、神や仏を信じる人たちと、それを否定して物質的に生きようとする人たちは根本的に交わることはないのだから、それが妥協的におさまるはずはないのである。

 唯物的政治権力が強大に推移して、神を信じる勢力が圧殺される側になった場合には、それは反政府組織として地下活動的な抵抗運動として継続される。
 そして、その思いはいったん伏流水のように目には見えないところを流れるが、いつかどこかで奔流となって再び湧き出してくるのである。
 それは、時代を下る中に、大きな激流となり、大河となり、世の中を変えてゆく原動力となってゆくのである。
 
 これもひとつの歴史の大きな流れである。

 そして、今回の政変も、この流れの下に生じてきたものだった。
 その発端は、権力者の側からもたらされた。それは、計画経済から市場経済への方向転換がその大きなきっかけとなったのだ。
市場経済と計画経済は、そもそも性質が異なっている。
 計画経済にあっては、価格は、提供する側が人為的に設定する。そして、それをどこまでも、押し通すのだ。
 片や市場経済にあっては、その価格は需要と供給によって決定される。
 いくら提供者がこの価格で販売したいと思っても、その価格では誰も購入しなければ、取引自体が成立しないのである。
 よって、供給者に対価は入らず、売り上げはゼロになる。
 その結果、生産者は破綻し倒産する。
 自由市場において、何を購入するかは購入者の自由意思に基づいているがゆえに、商品を実際に購入してもらえなかったら、事業は衰退し、結果的に淘汰され、消滅するしかなくなってしまうのである。
 モノやサービスを求める人々が形成する自由市場と、製品を供給する生産者・製造者の真摯なる企業活動があいまって、価格はしかるべき値に落ち着いてゆく・・・。これをもって、価格の自動調整機構が働いたというのである。
 すなわち、価格決定は、各人の心の決定にゆだねられているということであり、購入という投票行為によって民主主義的に決定されているということでもあり、それは人智を超えて、神の手にゆだねられているということでもある。
 したがって、自由市場経済を導入するということは、人智として歪んだ、あるいは権力として利己的なる介入を一切拒絶することを意味するのである。

 しかしこのことは、自由市場においては、国や政府からの一切の介入を阻害するということではない。
 自由市場が繁栄するためには、神の御心にかなった自由の下に、自由市場が”健全なる発展”を維持しなければならないからである。
 例えば、殺人請負業があって、それがある国の人々の需要と供給を満たして事業として成立したとしよう。しかしながら、殺人行為自体は神の御心にかなっていないので、その事業化に対しては、国家権力をもって禁止、あるいは強固に取り締まり、また逮捕・捕縛しても強制的にやめさせるなければならない。そのような権力による介入は是とされるのである。
 一般的に自由市場経済の導入は、恣意的な価格操作や権力による利己的介入を拒絶する。
 ただし、自由には、正しい自由と間違った自由があり、もしも市場が自由の意味をはき違えて、人々の幸福を破壊する欲望の化身となってしまったり、倫理に反する方向に暴走する場合には、それを正す意味での強力な介入が必要とされるのである。
 それは社会正義、国際正義、すなわち神の正義にかかわっており、神仏の正しさに基づいた、正義のふるいが為されなければならないということである。
 神の御心にかなってさえいれば、自由な経済活動が100%保証され、生産者側の生産能力向上や生産調整と、購入者側の嗜好の変化や欲求などによって、その動向が決定されてゆくのであって、それは神の御心にかなったものとなってゆく。
 それに対して、神を否定した党指導部による人治をモットーとする共産党一党独剤体制にあっては、一部の支配層による人智としての物質的意思決定が拒否・拒絶されることを意味している。だから、必然的に革命、あるいは弾圧がおこることが確定されてしまうのである。

 人為的恣意性の排除。
 それは、自由を求める民主革命の真意と同値である。
 唯物論的権力者は、自らの独裁に関する正当性と権威を、強大なる軍事力をもって誇示している。
 それは、諸外国に対するより、むしろ身内に対して示威するのである。
 そして、その権力を容易に手放すことは無い。
 だからこそ、この革命の成就にあっては、軍事的権力を打ち破る必要性が出てくるのである。
 その目的達成のために、数限りない人間の血が流れることになる。

 人民解放軍は、実は人民弾圧軍として機能している。
 国民ひとりひとりの命と財産を守る軍隊ではなく、支配層としての権力と権力者を守る暴力装置と化しているのである。
 だからこそ、そのくびきを断ち切るための戦いが起きるのである。

未来科学の平行世界 第4章 大中華合衆国への道 その①

第4章 大中華合衆国への道

大歓声、大熱狂、大興奮とともにそれは始まった。

開会の宣言がなされたその刹那、歓喜と雄叫びが議会を覆い尽くし、議会の進行が一時的に完全に不能となった。
しかし、誰もそれを責めることもなく、その怒号に近い響きにしばし身をゆだねていた。

ここに至るまで、どのぐらいの月日が流れたか・・・。

どれほどの情熱が注がれ、この今の現実を、その心に把持し続けたことだろうか・・・。

しかし、その実現のために、いったい幾人の血が流れ、幾人の命が奪い去られたか・・・。

未来に希望を見、その夢を共通の志として・・・。
果たせぬ夢を、友に託して散っていった・・・。

その心をつむぎ、命をつむぎ、つむぎにつむいで、ようやく今、この時がある・・・。

万感の思いが、すべての人々の胸に押し寄せていた・・・。
その思いはまた、会議を中継している電波に乗って、それを視聴するすべての人々の心に沁み渡っていった。

◇      ◇       ◇

 第1回、統合中国・中華合衆国議会開催への道のりは、それは並大抵のものではなかった。
 かつて、中華人民共和国には全国人民代表大会があった。
 それを母体として、台湾中華民国の立法院を合併・統合し、かつ、その昔は独立国であった地域、例えば、南モンゴルやチベット、満州、そして東トルキスタンなどにあっては、その参加意思を尊重し、自決する方向で調整が進められていた。

 彼の地においては、中華合衆国の属州として未来を拓こうと希望する人々と、それには属さず念願である単立での独立国家として立国することを希望する人々の間で、意見が割れて騒乱が続いていた。

 例えば、チベットであるならば、長年国を離れ流浪の民と化しつつもチベット亡命政府の代表者として位置づけられていたのがダライ・ラマであったが、彼をを擁して立国することに大きな抵抗感が伴う人々が存在することは充分に理解できる。彼らは、それよりも、むしろ新しい政府を立ち上げて、中華合衆国の属州として拓かれる新時代にこそ未来を賭けようという気持ちを抱いているのである。そのことも、少し考えれば良くわかることだろう。
 実は、後者の道を選ぶ勢力が優勢であり、前者を選択する人々と、その二つの理想の間で新たな問題と相克、争乱が立ち上がっていたのである。

 今回開催された議会は、共産党による一党独裁を排し、多数の政党による政党政治へ向かう道として成立してきたものであり、おそらくは、その議会が、新しい中華合衆国上院と下院議会へと分かれてゆくことも想定されていた。
 今までの支配階級であった中国共産党は、歴代の王朝に代わって中国全土を支配し続けていた。
 それが、崩壊したのである。

 中国共産党が人民解消軍を統帥し、国内政治を主導してきた。
 宗教や民族、それに起因する民族的対立などを超越する形で、唯物論を信奉する共産党という政治勢力が最高位に君臨し、様々な意見の違いを、軍事力や警察力といった政治的権力により押さえ込み、力によって鎮圧する・・・。
 政治思想は一応マルクス主義とされていて、異論は認めないことで平定する。
 反乱分子は、権力によって抑え込み、治安維持を優先する。
 それでも言うことを聞かない反乱分子は強制収容所へと隔離し、最終的には粛清によってこの世から抹殺してしまうのである。

 人民は、力による強制力の下で自由を奪われ、抑圧された世界に生かされるのみ・・・。
 思想・信条の自由は無く、全てはこの世的、物質的判断によって切り揃えられてしまう・・・。
 共産党がよって立つ思想的基盤は、唯物論なのだ。
 唯物論によって国民を洗脳するのである。

 唯物論とは、こうである。
 目に見えず、手でさわれず、耳にも聞こえず、においがすることもない。
 物質的な存在証明に馴染まない価値観を認めない。
 科学的実証精神で証明されるもののみを真実とするのである。
 よって科学的実証が不能で、ただ信ずることを求める神や仏は抹殺されてしまうのだ。

 唯物論の下では、生命と尊厳をもった形而上学的な人間観は、完全に否定される。
 そして、人間存在のすべてを、物質世界の中に閉じ込めてゆくのである。
 そう、物質で構成された機械人形こそが人間の真実の姿であり、正常な機械として存在する権利こそが最重要の人権であり、それが第一に守られなければならないと・・・。
ただし、ここでいうところの“正常な”という意味は、「唯物論を信じ、共産党の出す方針に従順である」ということを意味しているのだから、当然、神仏や霊性、神の臨在や魂としての正しいあり方などを信じる者、すなわち、神仏への信仰に基づいて、神仏の子として神仏の価値観に基づいた個人の尊顔を大切にしようとする人々とは、当然ながら対立関係になる。
 共産党の側からすれば、共産党の価値観やその決定に逆らう者は、壊れた人間、欠陥人間であるとみなされて、隔離病棟の檻の中に閉じ込めることや、場合によっては消去してしまうられることに正当性が与えられるのだ。

 宗教は、国家権力の下に認可されたもののみが許され、その上位に政治権力が君臨する。
 宗教は、ただ体裁のみが整備され、信仰心という大切な中身がもぬけの空にされてしまうのである。
 それはちょうど、権力者におもねる”おかかえ宗教”のごときであって、権力の前には、いかなる教義であろうとも、ご都合主義的にねじ曲げてもなんとも思わない”太鼓持ち宗教家”のみしか生き残れないことを意味しているのである。
 政治権力に逆らうものは、当然粛清の対象となる。
 例えば、法輪講のごとき宗教は、国の体制を転覆させる意図ありとみなされて、淫祀邪教として弾圧の対象に選定されるということである。

 個性あるひとりひとりの自由や尊厳よりも、共同体や組織の論理を優先させること。
 それが、共産主義・国家社会主義の基本的な考え方なのである。
 ゆえに、その枠組みから外れるアウトローたちは、隠れて地下活動をするしかなくなってしまうわけなのだ。

 しかし、本当にこれで良いのか?
 真実はどうなのか?

 この本質的な問いかけは、いつの時代もやむことはないのである。

 唯物論は本当なのか?
 それが、真実なのか?  
 目に見えて、手に触れて、観測装置でデータとして実測できるもののみが心理であり、それ以外のものは認めない。で、本当にそれでいいのか? 
 霊や魂などは迷信であり、無知な原始人のたわごとなのか?
 総じて、神や仏などは人間の妄想の産物に過ぎないのか?
 それが本当なのか?

 人間を機械として見るだけで、人は本当に救われるのか?
 いや、救われていないからこそ、数多くの問題が起きてきているのではないか?
 高徳なる神や仏という存在、無明に惑う人間を導く優れた知的生命というべき存在。人間を超越したる優れた存在。それらは、人間がつくり出した虚ろな夢にしか過ぎないのか?
 それは、心弱き人間が生み出した叶わぬ希望への代償ということなのか?
 本当に、その考え方が正しいとして良いのか?

 数千人にわたり人々の信仰を集め、人々の心のよりどころとなり、魂の救済の原理ともなって、文化や文明の基盤として、この世界に宗教的文明圏を形作ってきたのが世界宗教である。
 しかし、そんなものもう古臭くって、物質科学理論によって導かれる科学文明こそが、その進化形として進んでいるといえるのか?

未来科学の平行世界 第3章 恐怖の大中華帝国 その④

 おそらくは、歴史ある老大国であって、国際金融発祥の地としてのプライドが、そうなさしめたのではないか?と推定できた。 
その目的は二つあると思われた。

 第一には、完全対立することで、国際金融が分裂することを食い止める目的。
 経済はひとつに連帯し、大きくまとまることで相乗効果を生み、発展する。逆に、分断され、分割され、ブロック経済化することで縮小し、いわゆる不況が導かれる。
 アメリカの対決姿勢は、根本的なる対立となり、世界を分かちブロック経済化を促進する。それは、ひいては二大勢力の衝突と相克につながってゆき、戦争への道が開かれてくるだけである。
 過去の歴史から、そういったことが懸念されたがゆえに、「自らが緩衝役としてAIIBに参加する」という決断を下したという推測・・・。これがひとつ目の理由として考えられた。

 もうひとつは、あえてそれに参加することで、中国側の意図や動き、公式発表から隠ぺいされた捏造や人為操作などの数々の情報をつかむことができ、さらには、彼らのシステムに自由経済の思想を流し込むことによって、AIIBを自由主義的に変質できるのではないか?という期待があったこと。そのようなことも推定されたのである。もしそれが本当に実現すれば、結果的には、アジア市場に絡んでの巨大なる富がイギリスにもたらされることになるだろう。それゆえに、近代金融経済の発祥地である老大国の意地として、SIS、「英国秘密情報部」を駆使することも想定内においたうえで、国家的な工作活動に入ることを企図してのことだったのではないか?と推測されたのである。
 しかしながら、おそらくは、「イギリスの目論みは甘過ぎた」という結果を見ることになるだろう。なぜならば、それは、かつてのクリントン・アメリカ政府が犯した過ちと、まったく同質のものと思われたからである。
 彼らがつぎ込んだ資金は、すべて巻き上げられ、中国の国家戦略資金として使われるだけになるだろう。

 人智が優先され、勝手な意図でねじ曲げてのあらゆる人為操作が許されるのがAIIBなのだから、神に誓って正しさや公正さ、正直さや信用保証を死守しようとしている自由主義金融体制とは、水と油であって、犬猿の仲どころか、根本的に敵対関係であり、交わること、交われることは一切無いと認識すべきなのである。
 ゆえに、イギリスの目論見は、一切実を結ぶことなく、すべてが裏目に出ることになると推定されたのである。

 イギリスの選択は甘過ぎるのだ。そして、「すこしでも利あらば」という欲得に目がくらんだとしか思えない。自らが金融先進国だという驕りが、彼らの目を曇らせ、その選択を誤らせたということなのだろう。

 不幸なことに、それは、懸念された通りの結果になったのである。

 AIIBによって主導された、シルクロード経済ベルトと二十一世紀海上シルクロード。そう、いわゆる一帯一路構想がおおむね構築されるにいたった時、ついにそれが始まった。

 中国資産がバブルだ!という懸念は相変わらず存在していた。
 彼ら中国首脳部は、AIIBを通じた積極的な投資の実行によって、その真実が露呈するのを食い止めていた。しかしながら、その人為操作も限界を迎え、AIIBを用いた粉飾にも限界がおとずれるかに見えた時に、彼らは、彼らが本来的に企図していた最終段階へと大きく舵を切ったのだ。

 それは、強大なる軍事力、秀逸なる情報操作システム、そして、世界各国の主要都市を標的として実戦配備した大陸間弾道核ミサイル・・・、その力をもって、それらを金と食料と油へ変えるための強硬策へと方針転換したのである。
彼らにとって、それは、当初からの予定に過ぎなかった。

 折も折、北朝鮮の最高指導者は、年若き金正恩の独裁体制・・・。
 若いがゆえに野心丸出しの彼の姿勢には、自らの権力に酔う傾向が多分に認められていた。
 彼は、中国にならって、弾道核ミサイルでもってアメリカなどの超大国と渡り合い、列強の一つとなって世界を主導する国のなかに参加できると信じていた。
 中国が、アジア制圧ための戦略インフラ構築に目処をつけたとのと時を同じくして、金正恩は水爆核弾頭の開発と、それを搭載する大陸間長距離弾道ミサイルを完成した。そして、彼は、彼自身の慢心から、とんでもなく強気の行動に出たのである。
彼は、北朝鮮の東倉里から、日本の九州を超えて太平洋のど真ん中へ、弾道ミサイル発射のデモンストレーションを行ったのである。
 それは事実上、ワシントンをも直撃できることを示唆するあからさまな威嚇攻撃であり、と同時に、それは中国に対しても、「場合によっては北京へ核ミサイル撃ち込むこともできるんだよ!」という意思表示でもあったと伝えられている。
しかし、それは彼にとって、大きな選択ミスとなったのである。
 金正恩が、そのミサイル発射の声明を、平壌放送を使って大いに鼓舞したその直後、中国はこんな声明を発したのである。

「我が国は、今回の北朝鮮によるミサイル発射実験を、世界平和に対する重大なる反逆と認定する。よって、本日、人民解放軍瀋陽軍区第三十九集団軍に平壌侵攻を命じた。それは即座に実行され、一時的なる制圧を敢行した。ただ、我々解放軍は、脅威を排除の後すぐに撤収し、北朝鮮の主権はそのすべてが維持される。我々は、そのことを保証する。よって、本件に関するいかなる干渉も、その一切を受け付けない。我らがこの緊急措置のすべては、世界平和を揺るがす緊急事態であるがゆえの一時的なる危機対応であると認識すべきである。よって、北朝鮮および金正恩の身柄に関しては、我が軍に全託されんことを要請し、その受諾を期待する」
 と・・・。
 中国の電撃的対応に、アメリカは静観する以外の選択肢を見出すことができなかった。
 そして、本当に、一週間を過ぎたあたりに、瀋陽軍は遼東半島にまで完全撤収してしまったのだ。

 その間、何が行われたかは定かではない。
 少なくとも、金正恩は捕えられ、何らかの傀儡化処置が行われたとされている。
 薬物を用いたマインドコントロール技術により、事実上中国の完全なる支配下に置かれたということが噂された。傀儡を通り越して、ロボトミー国家として、中国の先兵としての完全なる兵器としての役割を担えるものとするための軍事的介入が行われたといわれていた。

 その後、何の声明もなく、静かに時が流れた。

 アメリカとしては、監視のためにアジアへの兵力投入を増強することぐらいしかできなかった。
 日本近海へ原子力空母を追加派遣しつつ、韓国にB52大型爆撃機を配備した。
 そして、北朝鮮へのさらなる経済制裁を強める意向を検討している時に、突如、舞水端里から福岡へ向けて中距離核ミサイルが発射されたのである。

 それは、福岡の中心地、博多を直撃し、炸裂した。
 熱放射線と衝撃波による破壊力は、30万人クラスの生命を一瞬にして奪い去った。

 中国はすぐに、北朝鮮への非難声明と、アメリカをはじめとする国連常任理事国の会議開催を要請した。
 加えて、北朝鮮への報復攻撃は、即、中国本国への敵対攻撃とみなし最大限の火力でもって痛撃を加えることをつけ足してきた。今は、大国のエゴで争っている時期ではない。未曾有の大惨事に、意思を統一して当たることが肝要だと・・・。

 やり方は露骨、見え見えの策略でありながら、自らが平和の使者であるが如き言説を弄し、すべてに先手を打って畳み掛けて来る中国の攻勢に、同じ核大国であるアメリカ、ロシアですら、彼らに追随するしか他に選択肢が無くなってしまったのだ。

 中国が後ろから糸を引いていることは、ほぼ明白であるにもかかわらず、なんらの反撃や反論を加えることができない・・・。
そうなった最大の原因が、各国のメディアを通じて発信される、かつて100万都市であった福岡の、悲劇的惨状に関する数々の衝撃映像に帰着した。

 それは、アメリカの国民をも震え上がらせ、正義への鉄槌への意思を打ち砕いてしまうには充分過ぎるものだった。
 それは、アメリカ国民たちが正義だと信じてきた”日本への世界初の原爆投下”という行為の真実の姿が、実は”それほどに非人道的な所業であったのだ”ということが、につながってしまったのである。

「戦争が継続されることによる被害を止める代償として、原爆投下は正義であった」と信じ込んできたのだけれども、いざ本当にその惨劇を目にしたとき、その気持ち、その確信が、見事に打ち砕かれてしまったのである。

 こんな姿が人間世界にあっていいのか?

 自分たちが信じていた原爆投下の正当性が、根本から覆されたのである。
 いや、もしかすると、そんなことよりも、核攻撃が自らの身に及ぶ可能性に対して、神の正義を断行する意思の方が、萎えてしまう力の方が大きくなってしまったのかも知れない。

 日本国民は、かつて自らの同胞であった九州の壊滅に直面して、茫然自失の状態となった。
何が起きているのかは分かりつつも、感覚がその現実に追いついてゆかない。
 一部の人間を除いて、大多数の日本人の共通意識としては、何を言われても無抵抗となってしまったのである。
 もはや、反抗する気力は失われた。
 悲しみや怒りを通り越して、そのような底知れぬ無気力感のみが地に満ちていったのである。
 政府は、放射能物質による二次的被害を食い止めるために、放射性物質高度汚染地域の隔離とその除染作業に意識と対策を集中した。
 安倍総理大臣は、周囲から何を問われても、
「今は、早急なる人命救済と放射性物質拡散の阻止が第一であり、それに全意識を集中することを各方面に指示しました」
 と繰り返すばかりで、真に必要とされる「対外的声明や対抗措置の発動」などの具体的行動からは、逃避してしてしまったかにみえた。


 人間は、あまりにも想定外のことが眼前に繰り広げられた場合、判断と思考を停止し、なにも考えないようにすることが安心立命の最短、最適なる方法であると理解すべきだった・・・。そして、ルーティーン的な繰り返し業務に埋没し、それに身を任せることで最低限の心の安定をはかるのである。
 日本にあっては、そのように理解される対応が続いていったのである。

 習近平は満足していた。
 世界が、彼の思惑通りに進み始めたからだ。
 この痛撃によって、世界は、第一段階としての到達地点、アメリカと共産党中国との分割統治の段階に入ることが可能になった。

 そして、我らは来るべき最終決戦に備える・・・。

 欧州など、もはや傀儡である。
 中東は、すでに我が配下にある。
 そして、日本など、もはや我が属領である。
 すべてが、私のシナリオ通りに進み始めている。

 そう、世界を統べるものは、恐怖である。
 恐怖こそが、人をして人に従わせ、人の我を打ち砕き、圧倒的権力への従順へと導くものなのだ。
 そして、地に秩序と安定がもたらされるのである。
 そうだ、平和なる統治が完成されるのである。
 そのために必要とされる圧倒的な力こそが正義なのだ。
 人に恐怖を与え、恐れ、ひれ伏させる力こそが正義そのものなのだ。
 すべてを屈服させ、従わせるその力こそが善である。

 それは、武力という直接的なものだけではない。
 政治的駆け引きにおいても同じであて、綿密に組み立てた策謀すらその恐怖を知らしめる大きな力の一つなのだ。

 私は、そのようなすべての力でもって世を支配する。
 世界帝国としての新しき中国の、”真の始皇帝”となるのである。

 そう思い、しばし悦に入る彼の心には、覇者としての野心と、自らが進みゆく破局への揺ぎ無き確信が、紅蓮の炎の如く、ただただ燃え盛っていたのだった。

未来科学の平行世界 第3章 恐怖の大中華帝国 その③

 その間、日本にあっても、「人件費の安い中国人労働力を使って抵コストで商品を製造し、それを日本市場において市場破壊的な低価格で流通させることによって、ライバル企業を駆逐し市場を席巻する」というビジネスモデルでもって、間接的に共産党中国を巨大化し、軍事兵器を最先端化させてしまったのである。

 本物の繁栄を得たいのならば、日本のような成熟した先進国においては、新たなる付加価値、類稀なる新サービス、画期的な新技術、すなわち、誰も見たことがないイノベーショナルな価値を創造することによって、新たなる経済成長をプロモートしなければならないのである。
 それは、企業の研究開発の過程で生み出される高い付加価値、その希少性、その先駆性、あるいは輝くばかりの魅力こそが、商品価格を押し上げて、経済規模をさらに大きく拡大させつつ、本当の意味でのデフレ脱却をプロモートしてゆくのである。
 この新たなる第3の道こそが、経済先進国たる日本が、さらに発展するために求められていた新基軸であって、全世界が期待していた日本の使命そのものでもあったのだ。

 にもかかわらず、その道を歩むことは無かった・・・。

 日本が選んだのは、既存の価値の低価格化戦略、すなわちデフレ政策をもって国家の中心機軸として、ひたすら努力をしてしまったのである。
 その結果、通貨総量の増大にもかかわらずデフレは定着し、さらなる経済成長もできぬまま、ただただ時間の中を流されてゆくしかなくなってしまったのだった。本来、日本国内に落ちなければならない利益が、低価格ビジネスモデルを通じて中国へと流出し、彼らの軍事力拡大に使われることとなったのである。

 これが、“失われた二十年”の正体である。

 それは、国策の誤りによって、国家的に導かれた持続的不況であり、それは失策であり、失政であったということなのだ。あるいは、善意で新しい仲間になれると信じて中国へ投資をしたにもかかわらず、彼らはそれを牙に変えて日本を捕食しようとしてきておいるのだ。その事実を、正直に認めることこそ正しい時代認識といえるのだ。

 覇権国家としての確立を目指す中国は、着々とその軍事力の充実と最新鋭化を進めていった。
 高度成長を実現すると共に、中国人民の質的レベルも次第に向上し、それによって賃金の高騰も進んでいったのである。
 事業成功者の中には、巨万の富を得るものもあらわれた。それは、中国国民にとっては、生活を豊かにするという意味においては歓迎すべきことではあったのだが、低賃金による低価格路線で差別化するというビジネスモデルにとっては、それが機能しなくなるきっかけとなっていったのである。

 一見上手くいくかに見えた社会主義市場経済が、大きくその綻びを見せ始めた。

 アダムスミスの説く自由市場では、神の見えざる手による価格自動調整機構によって、商品価格や為替価格があるべき数値に収束する。すなわち、需要と供給による価格の自動調整機能こそ、自然で正しいあり方だと彼は見抜いていたのである。
 基本的に、その考え方に基づいて、自由主義経済を支えるインフラにあって、それが中心機能として働いてゆくように、信用を整え、信頼を担保し、信用経済に基づいた金融決済システムを整備・構築、保守、維持してゆくことが、自由経済諸国における常識であり、その中核的システムとなったのである。
 需要と供給による価格決定、すなわち自由市場の働きの下に、ひとりひとりの自由な経済活動や自由な付加価値創造がなされることで、積極的な経済繁栄がプロモートされてゆく。その結果得られる個人資産は、法で守られ、警察力でもって守ってゆくことも、信用経済の大きな基本条件なのである。

 それに対して、中国が進めてきた社会主義市場経済においては、強力な計画的人為性こそがその本質となっている。
 すなわち、市場に対する無制限の国家の介入が是とされるし、いや、むしろ国家による人為的な為替操作や価格維持行為、人為的価格決定こそが主なるものであり、それがあってこそ、国家計画を計画経済の名の下に、強力かつ粛々と推し進めてゆくができるのである。そして、国に逆らうものは、警察力や軍事力によって押しつぶすのだ。
 それは、国家統計の人為的な捏造や、不動産価格の国家関与による意図的なる価格維持及び価格操作、あるいは為替相場の意図的なる誘導、談合と生産調整、そして賄賂と便益、逆らうものは強制収容所へと粛清する、などなど・・・。それらがすべて是とされるのだ。要するに、”何でもあり”ということなのだ。

 それは同時に、自由主義諸国で最も大切にされる個人の人としての権利、倫理や信仰、表現の自由、あるいは市場の信頼性の基本中の基本である貨幣や取引の公正性、経済システムの信用と信頼、流される情報が正しいものだという信用保証などといった目に見えない価値を傷つけて、何を信じて良いかを分からなくするのである。そして、すべてが崩壊へと導かれてゆくのである。

 中国という国家は、信じることができない・・・。

 中国市場の商品、特に不動産関連に流れている富は、まぎれもなくバブルであり、虚構である。
 それは、単に、国家が意図的に作り上げている虚像でしかない。
 このことは、ずっと懸念されてきたことであった・・・。

 神の手の働きが差し込まれること。すなわち、バブル経済において価格暴落がおきること。
 それは捏造価格やバブル価格が正常化される過程であり、真実の価値が明らかにされるということでもある。
 意図的に吊り上げられた市場にあっては、経済規模の縮小・退縮として現象化するのである。それは、大不況の到来を意味すると共に、町中に多くの失業者が溢れることも意味している。

 外資から国内への積極的投資を導くには、国内において高度成長が持続する魅力的経済環境でなければならない。それを偽装するために、中国は、国家の経済統計をも偽って、虚像を映じ続けたのである。
 またアメリカは、人民元をドルとの固定相場に維持することで手厚く保護する政策を採ったのだ。
 それは、人民元を実勢価格よりも低く維持することで、中国の輸出産業が有利になるように、アメリカ側が意図的に為替操作をなし続けたのだ。
 しかし、そんな人間的な作為行為には、いずれ限界がおとずれる。
 ドルと元とを変動相場制へと移行させるなら、市場原理に基づいた“神の手”によって、人民元の本当の価値が明らかにされてゆくのである。

 それを見越した中国指導部は、次なる戦略として、AIIBで略称されるアジアインフラ投資銀行構想をぶち上げた。
 表向きは、「旺盛なアジアのインフラストラクチャーを整備するために、中国が提唱して開設された国際開発銀行」というものだけれども、その実態は、中国が主導する人為経済によって構築された、サラ金のごとき金融システムだったのだ。

 結局のところ、彼らの基本姿勢は、あくまでも不変であったということだ。

 彼らが企図するインフラストラクチャーとは、経済援助と称して投資する国々を属国化するための布石であり、通商のための陸海通関拠点の建設を強化するといううたい文句は、結局のところは世界を自分たちの版図に治めるための軍事基地の建設であり、軍港の整備、戦略上の拠点開発などに充てらるだけの話だったのである。
 それを、国際銀行の形態をとって外貨を呼び込み、他人のふんどしで相撲を取る形で実現することを企画しただけなのだ。
 すなわち、外国資本を集めて、それを途上国に貸し付け、返済が滞るとみるや借金の担保として、開発したその国の資産を国土とともにぶん取ってしまうのだ。

 当然、それに対するアメリカの対応は、拒否である。
 彼らは、同盟国家にも参加しないように呼びかけた。
 そして、日本は参加を見送った。当然のことである。
 しかしながら、アメリカと最も近しい国であり、旧来の盟友と思われたイギリスが、なぜか参加の意図を表明したのである。

未来科学の平行世界 第3章 恐怖の大中華帝国 ②

 時間は少し遡る。
 この状況に至るまでには、いくつかの分岐点があったことは間違いない。
 そもそもは、二十数年前のアメリカの失策に端を発するのである。
 そして、それを遡ること五十年前の日米戦争に・・・。

 二十年前、アメリカ大統領であったクリントンは、極東政策において、中国重視の政策を採択した。
 それは、未だ発展途上にあって、未開拓かつ十数億の人口を有する中国市場のあって、その将来性を重視するという決断である。そのような、中国再優先の政策を採ったことが直接の原因なのである。

 当時の中国国家主席は江沢民。
 彼は、先代の鄧小平の先冨論、すなわち、「白いネコでも黒いネコでもネズミを捕るネコはいいネコだ」という言葉を受けついで、社会主義政権にあって市場経済を共存させる政策を継承していった。そして、先ずは経済成長を優先させた結果、それなりの成果をあげた時代なのである。

当時、アメリカは、世界の警察官として君臨していた。
かつて、敵対した社会主義ソビエトを瓦解させ、地球のトップとして最強国の地位を確固なるものとしていたのである。

 アメリカの大統領がいかなる資質を持った人物であるか?
 彼の国が世界最強の軍事力を保持し、世界の警察として地球の秩序を維持しているという事実が、アメリカ大統領の判断が、世界最大の影響力を有している第一原因となっていた。
 アメリカ大統領の判断は、世界が進む方向に大きく影響し、未来を導く大きな要因となっている。だからこそ、アメリカ大統領選挙は、アメリカ国民が選出するにもかかわらず、全世界の人々が注目する一大イベントとなり、他人事で済まされるものではなくなっているのである。
 特に、七十年前に第二次世界大戦で敗北し、アメリカによって事実上の刀狩りをなされ、自衛のための武力行使さえ自らの意志で封じるような憲法条項を採択させられた日本国にとっては、核兵器を含む彼らの軍事力と、それを統率する大統領の考え方こそが、まさに決定的と言っていい程の影響が出ることは至極当然のことだった。

 先に述べたとおり、日米戦争以降は、ソビエト・ロシアを筆頭とする社会主義諸国陣営と、アメリカを筆頭とする自由主義諸国連合との冷戦時代に突入していった。
 その対立は、日米戦争末期に開発された原子爆弾から始まり、大陸間長距離弾道核ミサイルから、ミサイル搭載型水爆の開発競争へと流れていったのである。そのような核兵器開発の流れの中にあって、日本の国は、一義的には、軍隊としては武装解除され、ただ、アメリカの戦略的要地として機能し、その完全指揮下に置かれた自衛隊が存在するという状態に押し込められてしまった。

 それを逆手にとっての、「世界秩序維持や軍事パワーの争いには関与せず、荒廃した国土からの経済復興に特化する」という詭弁も、ひとつの英断だったのかも知れない。しかしながら、そこで避けられ続けた再軍備と主体的軍事統帥権などに関する問題が、今この国の根本的なる危機として露呈してきてしまったのだった。
 当時、吉田茂が標榜した「アメリカを我が国の番犬とする」という発言も、まったくもって負け惜しみの感を払拭することができず、むしろ卑屈さすら感ぜさせてしまう。そのような卑屈さに長年埋没し、経済的復興にのみ傾注する道を選択した国民は、最も大切な”国家としての誇り”を失ってしまうという憐れむべき状態に堕ちてしまったのではないだろうか?

 日本の国の平和論者はこう告げる。
「自衛権を捨て去ることによって、経済的復興にのみ特化することで、国土の立て直しと金儲けに邁進することが可能になったのだ。お陰で、経済的なる繁栄を再び取り戻すことに成功したのであり、その恩恵を満喫し続けるためにも、憲法9条は死守されなければならない」
「奇跡の復興を支えてきたものこそ、日本国憲法前文の精神であり、その具体的なあらわれとしての憲法9条である」

 この意見は、それなりに日本人のプライドをくすぐるものではあったと同時に、それによって失われたものは大き過ぎたということがいえるだろう。

 戦争で磨かれた科学技術と、戦後の経済界において積極的に導入された科学的経営管理法、いわゆる経営マネジメントの日本的発明と研究開発、そのトライアル&エラーの力によって、経済的には世界一を争うまでに成長することが可能となったのである。
しかし、その間に国民から選出された日本の政治家たちは、国家の指導者が本来的に果たさなければならない責務であるところの国防や軍事的統帥といった基本領域に関して、その資質をまったく欠いたまま、あるいは、その資質をまったく問われることなく職務を全うすることができたのである。

 その一方で、もうひとつの問題としてあらわれてきた、職業としての政治家のあり方も重要な論点といえるだろう。
 それは、政治家の資質そのものに関わる問題だからである。
 理想的には、経済的にも独立しており、金銭によって自らの信条を曲げられないぐらいの資産家や社会的成功者が選出されることが、良い政治家を得るに当たって望ましい姿だったのであるが、多くの資産を持つ裕福な政治家は不潔であり、資産が少ないことが清潔であるという偏見…。そんな誤った認識がまかり通ってしまったのである。
 セレブのような成功者には、庶民の感覚は分からない。
 いや、それ以上に、力ある政治家が、まるで時代劇に登場する悪代官の如く私腹を肥やす権力者のように扱われ、政治家として実力のない小市民が選ばれてゆくような力が働いてしまったのである。これは、マスメディアの罪である。

「清貧こそが為政者の徳目である。金銭に淡白であること、それはすなわち心が潔白であることの証にもなる」
「現代のような濁世には、金に目がくらみ、金権にのみ心を動かす業突張りの政治家が力を持って、権力を利権に変えて私腹を肥やしてきた。政界は、そんな輩が跋扈しているのであって、金権政治こそが日本を駄目にした」
 というような考え方に支配された結果、政治資金すら公費として支給されることが一般化してしまい、あるいは公費を用いてしか政治活動ができないような政治活動規制法の網が張り巡らされ、むしろ政治家としての政治的判断の自由が奪われることになってしまったのである。
 その結果、本来、公務員を使い、公務員を導き、公務員をして公的使命を果たさせてゆくのが政治家の職務であり、政治的リーダシップであったはずなのに、なんと政治家自身が公務員化するという、ゆゆしき状況が生み出されてしまったのである。

 公務員化した政治家は、ほとんど官僚の考え方や発想と変わらなくなる。
 それは、行政府公務員にとって有利な政策しか採択できなくなることを意味しており、それは、行政官僚たちの言いなりに操られることを意味していた。
 その結果、真に改革しなければならない案件が、本来的に改革不能な状態へと陥ってしまったのである。

 それゆえに、行政改革を重ねるごとに国家機構は巨大化し、肥大化し、金食い虫となるしか道がなくなってしまったのである。
 税金を食いつぶすだけの不効率かつ不誠実な、穀つぶし行政機構が成長し続けてゆくこととなったのである。

 それは、お役所のみならず政治家も含めて、公金にぶら下がって生計を得る人々にあっては、安心と安定、そして、将来の安泰立命の保証となり、そのような安定感を志向する人材が集結することによって、ある意味において堕落がもたらされてといえるだろう。
 しかし、本当にそのままでよいと思うのか?
 と問われたときに、彼らはいったい何と答えるのであろうか・・・?
 あるいは、国民はどのように考えるのだろうか? 考えるべきなのであろうか?

 本来、国家をあずかる政治家としての使命は、領土、国民、主権を守り、国が国としてよって立つところの建国の理念を、この地球の中において実現してゆくことにあるはず・・・。それなのに、そんなことすら考えられぬにまでに落ちぶれてしまったのだろうか?

 武力による国権の行使、すなわち、軍事的な実力行使を完全に放棄するということは、共産党中国のように、強大なる軍事力を力に変えて自分たちの自己実現を押し通そうとしてくる国家に対しては、もはや屈服する以外に道が無いということを意味している。
 屈服とは、軍事的強国に服従することにほかならない。
 それは、国家としての信条や理念を、相手国の都合によってねじ曲げられても、なんらなすすべがない、ということである。
 それは、軍事力によって、強大な国家の植民地とされる道を選んでも、地上に生き残りたいという選択をするということでもある。
 自分たちの生命と安心を得るために、「白旗を掲げて延命を乞う」ことも受け入れる、ということを意味している。

 しかしながら、それが、アメリカであった場合には、どうだろう? アメリカにおいては、人権の尊重、思想・信教・信条・表現の自由、そして経済的自由と個人の財産権の保護など、自由と民主主義の理念がほぼ共有できるし、お互いに尊重し合うことが期待できる。それゆえに、大きな不幸が生ずることはなかったのである。
 しかし現実は、民主党アメリカ大統領政権の失政により、国として、理念の共有ができない勢力が、大きな力を持つに至ったのだ。
 我々と価値観を共有できない国家、それはすなわち共産党中国ということであるのだけれども、その国が強大なる軍事的脅威を背景に、自由民主主義諸国に対して、武力でもって対峙し始めたのである。
 それは、別の言葉で言うならば、新たなる冷戦構造の出現ということである。 
 覇権国家として大中華帝国の再興を目指す共産党中国と、その傀儡として存在が許されている北朝鮮。それらが時代のあだ花として、実を結んでしまったということなのだ。

 彼らに共通する信条は、ひとつである。
 それは、基本的に独裁国家であり、個人の人権よりも国家の権力構造を優先することにある。
 独裁であるがゆえに、国といっても、それは個人あるいは特権階級集団の私有物であり、国民は為政者の奴隷扱いに甘んじざるを得なくなる。
 中国にあっては共産党が、北朝鮮にあっては金一族及び軍部が被支配者階級であり、特権階級である。
 為政者は、国民の権利やその生命と財産を収奪する権力を有し、彼らの自由を束縛し、権力者としての自己実現のために国民のすべてを糧とする。
 個人の幸福よりも、集団組織の目標実現と権力構造の維持を優先させるのが、“国家社会主義”の本質ということだ。
 クリントン・アメリカ政府は、中国が擁する十数億という巨大なる人口と、その市場としての潜在力に目を奪われ、大きく中国寄りの政策を採択した。オバマ・アメリカ政権は、世界の警察としての使命を退行させるとともに、クリントン政権同様中国との合弁によってアメリカの経済的再生を図ろうとした。それによって、共産党中国は、かつての日本の如き高度成長をなしとげて、ぐんぐんと力をつけてゆくことになったのである。

 第二次世界大戦後、中国共産党指導者である毛沢東は、「核兵器を保有することこそ国際的影響力と発言力を持つための最短の道である」と喝破した。
 そして、それを最優先の国家目標として、黙々と愚直に核開発を進めてきたのである。
 その路線を引き継いだ鄧小平は、市場経済の導入をも推し進め、アメリカと同じ自由主義国家への道を選択しているように見せかけつつ、貿易によって稼いだ外貨と科学技術をもって強力に軍事力増強を推し進めた。
 共産党中国の基本路線は一切変わらずに、大陸間弾道核ミサイルの実戦配備を筆頭に、ありとあらゆる軍事力増強に血道をあげていったのである。

 すなわち、アメリカの側に、共産党中国の国家としての在り方と、その行く末に対する読みが甘く、強力な中国優遇政策を採ったこと、本来味方である自由主義陣営の日本国を敵視して、経済的にその力をそぐような政策を採ったこと。
 大きくはこの二つの原因があって、現在のような軍事超大国として世界的脅威となる共産党中国が生み出されてしまったのである。
プロフィール

青の錬金術師

Author:青の錬金術師
ご訪問くださり、まことにありがとうございます。
このブログでは、幸福の科学の信者として、エル・カンターレ文明建設に資するべく、様々な新しい視点や発見などを提供してゆきたいと考えています。
私といたしましては、科学と宗教を融合してゆくユニークなサイトにしたいと志しています。

御愛好のほど、どうぞよろしくお願いいたします。
1962年生まれの薬剤師です。

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